2010年2月21日

変人

 日本語の変人という言葉には肯定的ニュアンスは皆無と言っていい。連帯を一番とするこの国では当然なのだろう。選挙しかり、会社しかり、全ては村意識でことが決まる。開票率1パーセントで当確が打てる国も珍しかろう。一票の重みなんて悪い冗談だ。学校にいたとき、日教組の役員に、組合なんてまるで軍隊だね、と言ってやったら目をむいて怒っていたが、上意下達、上の指令には見事な服従を見せる。僕は組合に入らなかったから、村八分にあった。賃上げストを一緒にやろうと言うから、俺は給料が安いと知って入った、あんただって知ってただろう、気に入らなきゃあ証券会社にでも職替えしたらどうかと言ったら獣のように吠えたっけ。
 アウトサイダーという本があった。確かコリン・ウイルソンだった。実存主義者を中心とした規格外人間を辿った本だった。いやあ、僕は変人ともアウトサイダーとも思ったことはなかったが、村意識を押しつけられることだけには辟易したねえ。自分ではよくつきあったと思っているんだけど、やっぱり村からこぼれちゃう。これはもう仕方なかった。自分という人間のつくりが規格外だったのかしら。個性を育てるなんて埒もないことをいうけど、個性なんてなければそれにこしたことはないさ。どんなに楽か。人に合わせることがどんなに苦痛なことかを知らない人間に限って、個性だの孤独だのという言葉を、楽しげに弄ぶものだ。孤独とは、決して出て行ってはくれない魔物を、自分の中に背負い込んだもののことだ。これは一生ついてまわる。恐らく、朝起きたときから、見えてる景色が違うのだ。僕は、いまだに故郷という言葉になじめない。よく聞く、ふるさとという語感が、僕には欠けている。だから、間もなく死ぬんだろうというこの歳になるまで、同窓会と名の付く会にいっぺんも出たこともない。どんな顔をして出ていけばいいのか、どんな話が出来るかしらと思うと、どうしても出る気になれない。今でも毎年のように、そういう類の案内状が来るが、全て欠席に丸をつける。近況もない。
 

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2010年2月17日

もういちど島津亜矢

 前回、ちょっと書き足りなかったから、補足してみたい。最近は毎日のように彼女の歌を聴いている。やはりよく心に響く歌だ。「悲しい酒」などもひばりよりいいと感じる。あるいはTY TY GA さんの仰る通り、「千の風になって」も、本家よりよほどいい。秋川某の歌を聴いた時には、話題になるほどの感興は湧かなかったが、亜矢さん{芸名として敬称はなしでしたが、沢山の亜矢さんフアンに敬意を表さねばと思いました}はある世界を描き得ていた。「黒百合の歌」もいい。「人形の家」もいい。決して股旅演歌だけではない。
 何がいいと感じさせるのか。前回、やや言葉は大き過ぎるが、たましい、ということを言った。彼女のソールは、哀切というものだと思う。彼女の声には、本質的に哀調がある。明るく軽快な歌を歌っても、本質的なところで哀調が基調にあると。「人形の家」では、{わたしはあなたに命をあずけた}というリフレインからその哀切さがもろに響いてくる。これはきっと、亜矢さんが巧まずして出てくる、彼女の声そのものがもっている基調なのだと思う。無論それは一曲全体に流れているものに違いないが、さらに、例えば、「関の弥太っぺ」の2番、{気にはしてたが}という文句で実に微妙な声の震えが出る。同じものが、「瞼の母」の2番、たった一言忠太郎と、{よんでくだせえ}というところでも聴ける。これはもはや技術の問題ではない。声の質の問題だ。だから誰にも真似が出来ない。この声の質を感じる人は、その哀調を強く感じ、亜矢さんは何を歌ってもいいとなる。事実僕も何を歌ってもいいと感じるし、彼女は歌う歌全てをその声の色調で染め上げてしまうのだ。ではこの哀調とは何なのか。

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2010年2月16日

音について

 僕がまだ二十歳前後のこと。友人のところで掛かっていた音楽に、ふと強い印象を受けて、そのレコードを借りて帰って聴いた。第九だった。小さい頃から、横笛で勝手に曲を作って吹き、人が教えろと言うから悦に入って教えたり、ぎターをいじったり、中高時代には講談や落語や浪曲も好きで、歌謡曲なども好きだったが、クラシック音楽はまともに聴いたことがなかった。下宿で借りた第九を安物のプレイヤーで幾度も幾度も続けて聴いたのを今も覚えている。そのうち曲の中に入り込んだようになって、終いには、合唱のところに来ると、涙がぼろぼろこぼれた。その頃は、文学に夢中になっていて、主に外国の小説やら哲学書などを濫読していたが、音楽にはまるで無知であった。そんな中で聴いた第九が、暗く苦しい中をやっとのことで這い抜けて、「合唱」で一種宗教的な歓喜の救いに至るというふうな世界が頭一杯に渦巻いて、涙が出た。それからよほど後になって、何かの本で第九のことを読み、自分の聴いたものと、解説が描いていた世界が通じ合っていたと感じたのである。芸術の世界に、正解も不正解もあるまいが、それを契機にモーツアルトなど他の曲を聴くうちに、ベートーベンの曲では、音に意味があると言うことを考えるようになった。つまりベートーベンの曲には、思想があるということである。第九においても、あの主調低音が今にも前に塞がる壁を突き抜けるようでいて、焦らすようになかなかつき抜けない。やがて、べートベンはしつこいとも感じたりしたものである。しかしモーツアルトやブラームスなどには、あの重さ、あるいは思想などない。純粋に音の連なりが紡ぎ出すある世界だけがある。いや、音だけがあるのだと。きっとこれが音楽というものだろうと。むろんこれも音楽にはド素人の僕の感じ方に過ぎない。文学にも、思想性がつよいものと、文字が紡ぐリアリティーだけが世界を創るものがあるとは言えようが、そのこととはまた違うことだ。

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2010年2月15日

島津亜矢という歌手

 僕はこれまでクラシックや唱歌・童謡といったCDは何十枚か持っていたが、所謂歌謡曲のレコードは買ったことがなかった。ところが昨年、ある一曲を聴いて、「島津亜矢」という歌手のDVDを初めて買った。無論それは、よく歌う歌手だと思ったからに違いないが、人気のある歌手は他にも幾らもいるようだし、ひばりも北島も確かにうまい。彼らは確かにプロと言って言い歌手だ。しかし、美空ひばりという大層な名をつけた歌手は、他の追随を許さぬ抜群の歌唱力を持っていたことは認めるが、僕はどうしても好きにはなれなかった。唯一北島は好きだった。うまいとも思っていたし、その歌い方には真似の出来ない確かな個性があった。以来、様々な歌手が、きら星の如く生まれては消え、消えてはまた新手が現れて、多くは短い寿命を終えて今は視ない。
 それにつけても、僕は以前からプロと言える人間は案外に少ないものだと思ってきた。とりわけ今の歌手で考えてみて何人いるだろうか。女性歌手の場合、やや言葉が勿体ないが、美人コンテストにすぎないと思っている。少し並よりはましかしらというルックスだけで売れていると思うのは、強ち不正確ではあるまい。あとは業界のしきたりや所属事務所の勢力争いに過ぎないだろう。その証拠は、まず第一に、声がない。皆マイクと口づけしながら呟いている。マイクを30センチ、40センチ離して、なお朗々と歌い上げられる歌手は、男女合わせても数えるほどしかいまい。だから、尾崎とか布施とかいった歌手は、それなりに頭に残っている。声量もなく、かすれ声で、むやみと肩をゆすってむりやりビブラートをつけているような歌い手には辟易するものだ。かすれ声が、ある世界を演出出来るのは、一曲か二曲だろう。

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