2010年3月11日

政権担当能力なし

 先日のNHK日曜討論で、元財務相の与謝野馨氏が、「政権担当能力がないということだ」と言ったが、これが今民主党の評価として最も的確な言葉であるに違いない。
 国民はかくも無能力にして、幼稚な集団を国の指導者として選んだということは、そのまま国民が幼稚で取り返しのつかぬミスを犯してしまったと言うほかない。この種のことになると、何故に日本人はこうも愚かであるのかと思うと、殆ど絶望的な気持ちに陥る。
 いや、今後私はこの種の事には言葉を選ばず悪態をつくことに決めたのである。
 無論自民党とて、同種の集団であることに違いはないが、彼らは同じくヤクザではあっても、少なくともまだ現実主義者であった。まるで小学生の学芸会を観ているような民主党の稚拙さに比べれば、まだしもましであった。
 何の目算も青写真もないまま県外、国外と連呼していた普天間の移設問題を筆頭に、昨年あれほど大騒ぎして混乱をさせたガソリンの暫定税率廃止も無理、高速道路の無料化も無理、さらには単に莫大な利権市場を生み、企業や家庭に膨大な負担を強いるだけのCO2の25%削減を、これまた何の検証もなく国際社会に公言してしまった。
 今では、地球温暖化という指摘すらが科学的根拠のないものだという主張がアメリカを中心にじわじわと広がり始めているという報道もあり、氷河が解けるの水位があがるのという警告が、データーの故意の歪曲によるものだという学者の告白まであるというではないか。
 それはともかく、世界で一番の省エネ努力をした国として自他共に認める日本が90年を基準に、先頭を走ると宣言することの愚かさは、既に京都議定書で経験ずみのはずである。鳩山がぼんぼんよろしく、それを単なる善行として力んでいるのだとしたら、はや何をか言わんやである。
 挙げ句、己が国の無辜の民を拉致し、ほとんど戦争を仕掛けたとも言うべき北朝鮮傘下の学校の授業料まで無償化すると聞いては、私は彼らを自国に対するテロ集団とさえ呼びたい。
 国民も国民だが、出来もしない嘘八百を並べて票をかすめ取り、国防費を超える子供手当や農家の所得補償を叫ぶそのやり口は、まるで屋上から札束をばら撒くがごとき愚行であって、政策としてこれほどの下策はない。その証拠に、当の受ける方の主婦たちの70%がつまらぬと言ってるではないか。
 鳩山は、就任直後、北方領土返還に半年で目処をつけると放言した。その時私はこの人は馬鹿なんだと思った。
 単にじいさんがソ連との国交交渉に行ったことがあるというだけで、このぼんぼんでもない脳たりんは、これほどの無思慮をさらけ出す人間なのである。だから、母親に12億貰っても、知らなかったと言えば済むのだと、今日の日も思っているらしい。
 自民も無能だから、それから先が攻めきれないのだ。そう、知らなかったというのを認めてやって、それから攻めが始まるはずなのに。
 小沢が、新人議員は次の選挙に勝つことだけ考えれていればいいと言った。野党はこの発言を何故徹底的に攻めないのか。
 無論議員の100%が選挙のことしか考えてはいないということは誰もが承知のことだ。国家とか国民のことを一つでも考えているらしいという議員がいたら教えてほしい。
 ただその上で、全国民の前でそれを党運営の党是のように公言したら、これは議員辞職を迫る発言として責めるに十分な暴言である。それに前に書いた、天皇は俺たちの言う通りに動いていればそれでいいのだ、憲法にそう書いてあると言ったヤクザ発言を何故放置してるのか。恐らく、誰もこれが格好の攻撃材料になることに気づいていないのだろう。
 議員に本来新人はいない。
 40年のベテラン議員と昨日当選した議員は、等価だ。
 我々は、選挙活動をやらせるために、一人年間トータル一億とも言われる税金をつぎ込んでいるのか。議員は当選前から何年にもわたってよりましな政策の研究に励んで来たはずである。
 いやそれが建前だと言っているのである。こういう時喧嘩は建前でやるものだ。

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2010年2月21日

変人

 日本語の変人という言葉には肯定的ニュアンスは皆無と言っていい。連帯を一番とするこの国では当然なのだろう。選挙しかり、会社しかり、全ては村意識でことが決まる。開票率1パーセントで当確が打てる国も珍しかろう。一票の重みなんて悪い冗談だ。学校にいたとき、日教組の役員に、組合なんてまるで軍隊だね、と言ってやったら目をむいて怒っていたが、上意下達、上の指令には見事な服従を見せる。僕は組合に入らなかったから、村八分にあった。賃上げストを一緒にやろうと言うから、俺は給料が安いと知って入った、あんただって知ってただろう、気に入らなきゃあ証券会社にでも職替えしたらどうかと言ったら獣のように吠えたっけ。
 アウトサイダーという本があった。確かコリン・ウイルソンだった。実存主義者を中心とした規格外人間を辿った本だった。いやあ、僕は変人ともアウトサイダーとも思ったことはなかったが、村意識を押しつけられることだけには辟易したねえ。自分ではよくつきあったと思っているんだけど、やっぱり村からこぼれちゃう。これはもう仕方なかった。自分という人間のつくりが規格外だったのかしら。個性を育てるなんて埒もないことをいうけど、個性なんてなければそれにこしたことはないさ。どんなに楽か。人に合わせることがどんなに苦痛なことかを知らない人間に限って、個性だの孤独だのという言葉を、楽しげに弄ぶものだ。孤独とは、決して出て行ってはくれない魔物を、自分の中に背負い込んだもののことだ。これは一生ついてまわる。恐らく、朝起きたときから、見えてる景色が違うのだ。僕は、いまだに故郷という言葉になじめない。よく聞く、ふるさとという語感が、僕には欠けている。だから、間もなく死ぬんだろうというこの歳になるまで、同窓会と名の付く会にいっぺんも出たこともない。どんな顔をして出ていけばいいのか、どんな話が出来るかしらと思うと、どうしても出る気になれない。今でも毎年のように、そういう類の案内状が来るが、全て欠席に丸をつける。近況もない。
 

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2010年2月17日

もういちど島津亜矢

 前回、ちょっと書き足りなかったから、補足してみたい。最近は毎日のように彼女の歌を聴いている。やはりよく心に響く歌だ。「悲しい酒」などもひばりよりいいと感じる。あるいはTY TY GA さんの仰る通り、「千の風になって」も、本家よりよほどいい。秋川某の歌を聴いた時には、話題になるほどの感興は湧かなかったが、亜矢さん{芸名として敬称はなしでしたが、沢山の亜矢さんフアンに敬意を表さねばと思いました}はある世界を描き得ていた。「黒百合の歌」もいい。「人形の家」もいい。決して股旅演歌だけではない。
 何がいいと感じさせるのか。前回、やや言葉は大き過ぎるが、たましい、ということを言った。彼女のソールは、哀切というものだと思う。彼女の声には、本質的に哀調がある。明るく軽快な歌を歌っても、本質的なところで哀調が基調にあると。「人形の家」では、{わたしはあなたに命をあずけた}というリフレインからその哀切さがもろに響いてくる。これはきっと、亜矢さんが巧まずして出てくる、彼女の声そのものがもっている基調なのだと思う。無論それは一曲全体に流れているものに違いないが、さらに、例えば、「関の弥太っぺ」の2番、{気にはしてたが}という文句で実に微妙な声の震えが出る。同じものが、「瞼の母」の2番、たった一言忠太郎と、{よんでくだせえ}というところでも聴ける。これはもはや技術の問題ではない。声の質の問題だ。だから誰にも真似が出来ない。この声の質を感じる人は、その哀調を強く感じ、亜矢さんは何を歌ってもいいとなる。事実僕も何を歌ってもいいと感じるし、彼女は歌う歌全てをその声の色調で染め上げてしまうのだ。ではこの哀調とは何なのか。

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2010年2月16日

音について

 僕がまだ二十歳前後のこと。友人のところで掛かっていた音楽に、ふと強い印象を受けて、そのレコードを借りて帰って聴いた。第九だった。小さい頃から、横笛で勝手に曲を作って吹き、人が教えろと言うから悦に入って教えたり、ぎターをいじったり、中高時代には講談や落語や浪曲も好きで、歌謡曲なども好きだったが、クラシック音楽はまともに聴いたことがなかった。下宿で借りた第九を安物のプレイヤーで幾度も幾度も続けて聴いたのを今も覚えている。そのうち曲の中に入り込んだようになって、終いには、合唱のところに来ると、涙がぼろぼろこぼれた。その頃は、文学に夢中になっていて、主に外国の小説やら哲学書などを濫読していたが、音楽にはまるで無知であった。そんな中で聴いた第九が、暗く苦しい中をやっとのことで這い抜けて、「合唱」で一種宗教的な歓喜の救いに至るというふうな世界が頭一杯に渦巻いて、涙が出た。それからよほど後になって、何かの本で第九のことを読み、自分の聴いたものと、解説が描いていた世界が通じ合っていたと感じたのである。芸術の世界に、正解も不正解もあるまいが、それを契機にモーツアルトなど他の曲を聴くうちに、ベートーベンの曲では、音に意味があると言うことを考えるようになった。つまりベートーベンの曲には、思想があるということである。第九においても、あの主調低音が今にも前に塞がる壁を突き抜けるようでいて、焦らすようになかなかつき抜けない。やがて、べートベンはしつこいとも感じたりしたものである。しかしモーツアルトやブラームスなどには、あの重さ、あるいは思想などない。純粋に音の連なりが紡ぎ出すある世界だけがある。いや、音だけがあるのだと。きっとこれが音楽というものだろうと。むろんこれも音楽にはド素人の僕の感じ方に過ぎない。文学にも、思想性がつよいものと、文字が紡ぐリアリティーだけが世界を創るものがあるとは言えようが、そのこととはまた違うことだ。

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