2X世紀の未来像

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 今日、嫁のお義父さんから一通の手紙が来た。
その中身は、以前、産経新聞主催?のものであろうか、

「21世紀日本の国家像 私はこう考える」

ということについて、お義父さんが執筆し、優秀賞となった記事の写しであった。

 その内容は、賞がうんぬんということではなく、私自身に対して直接的に語りかけているものではないか、と錯覚さえ憶えるものであった。
 私も、若輩ではあるが、日本の未来像や展望について考えていないわけではない。
 お義父さんの、その先見性や思慮にはまだまだ追いつけないと思われるが、私なりに考えていることを書き殴ってみたいと思う。

 私は現在32歳であるが、「教育」というものが変貌を遂げてしまったのは、私たちの世代より後ではないかと思っている。「教育」というのは、学校教育しかり、親からの教育しかり。この変貌してしまった時代を、お義父さんは、『感傷大国日本』と銘打っている。この「感傷」という言葉に私は少々度肝を抜かれた。それは私も少なからず同じようなことを考え、問題視していたわけだが、それが「感傷」なのだということは気づいてはいなかった。
 今の教育、はたまた子育てというのは、「個人の才能を伸ばす」、「子供の意見を尊重する」といったものになっていると思われる。その言葉自体は決して間違いではないと私は思う。才能を潰すより伸ばすほうがいいだろうし、場合によっては、子供の意見を尊重した現場に遷移させていくことも重要であろう。

 しかし、それがすべてではない。

 「個人の才能を伸ばす」と言うが、果たしてどうやって伸ばしているのだろうか?才能というのは千差万別であり、はたまたそれが生涯の才能である保証もない。それを一教育現場、家庭という狭い範疇で達成できるとは到底思えない。結果、どうなるのかというと、「個人の才能を伸ばす」=「放置」である。アイデンティティーもままならない子供を放置すればどうなるか。崩壊である。

 ここでお義父さんの言葉を少し引用させてもらうことにする。

教育も本来は、先に生まれた者が後から生まれた者に自らの価値を押しつけることなのであると。そういう生きた現実の認識があって初めて人類の価値となり、福祉が隣人への思いやりになり得るのである

 本当は全文を引用したいぐらいであるが、この部分が私に強烈に伝わってきた。
 先にも述べたように、「教育」というものが変わってしまった、ましてや社会全体が変わってしまい、「感傷大国」となってしまった昨今、このことはとても意味あるものであると私は思う。
 この言葉を受けて、今まで感じていた『違和感』を思い出した。それは若者、さしては大人の風俗である。
 私の世代までは、いわゆる軍国主義的、軍隊的な教育現場や環境であった。「先生」の言うことは絶対であり、それが「生涯の糧」となるに足るものであることも少なくはなかったと思われる。「先生」が「右だ!」と言えば、「右!」と復唱するような様であった。個人の才能などは見向きもされなかったに近い。
 がしかし、今の世論は「子供にも人権があり、それを尊重し重んじるべきである。」となる。
 なぜそう変わってしまったかは別な論議となるであろうからここでは論じないが、前者の軍国主義的な教育の元に育った世代は、少なからずともアイデンティティー、いわゆる個性を持っている人がいると感じられる。しかし、今の教育環境の元で育った者は、個性がまるでない。逆に、他人と一緒であるということを美徳としているかのような世界である。同じものを着て、同じ物を使い、同じように行動する。これが「個人を尊重し重んじる」ということの結果なのであろうか?ただの平和ボケなのか?この「逆転現象」が私の違和感として、今でも考えさせられる。

 ここでお義父さんの評論でも最後に締めくくりとして述べておられるが、「共生と連帯を美徳とした日本の伝統とどう繋げるかという問題」がある。
 日本人が持っているそのような美徳は、戦後からの高度経済成長を支えてきた物であり、群集心理的な側面と、今で言うオタク的なまでの卓越した技術力は決して否定できるものではない。だが、いまや「ニート」までもが肯定されてしまう時代で、個人のアイデンティティーがいかに重要かを皆が考えるべきではないだろうか?
 アイデンティティーとは奇抜な存在ということではない。ここでいうアイデンティティーは、個人が個として存在しうる、社会という大きな世界の中で、個として生きることの出来る源である、と私は思う。



 最後に、尊敬するお義父さんのブログを紹介して締めくくりたいと思います。