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私は、『人間観察』が好きである。
「人間観察が好きである」というのは、
私の周りにいる人たち、はたまた、テレビに出ている人ですら、
その人の価値観や、その人そのものを見い出したい、と思うほど、
私は人間観察が好きだ。
「パニック障害」という病気になって、
ますますその勢いに拍車をかけている。
まず、「ヒトは多種多様である」ことは言うまでもない。
それは、外見、性格、その他もろもろでヒトは成り立っているからである。
だが、私が見つめたいのは、
その人の、『本当のココロ』である。
例えば、
「この人は、外面は明るく振る舞っているが、
実はものすごく寂しがり屋ではないか?」
「この人は絶えず、自分の保身だけを考えているのではないか?」
「常に人から尊敬の念で見られたい、と思っているのではないか?」
とか。。。
なぜ私が『人間観察』をするのか、と問われれば、
それは自分(己)を見つめ直すことを意味していると考えている。
「自分を見つめる」ということはとても大切なことである。
「他人が自分をどう思っているのか?を知りたい」ということより、
「自分が自分のことをどれだけ把握しているか?」を、
明確に知りたいと思うのは、私だけだろうか?
よく、「自分ことは自分しかわからない」という言葉を聞くが、
逆を返せば、自分のことすらわからないのに、
「他人を知ろう」と思うのは、順番が逆である。
まず、
・自分はなにを求めているのか?
・自分にはどのような感情が芽生えることができるのか?
・自分の存在は世の中にとってどれだけ価値のあるものなのか?
ということを考える必要があるように思えたのである。
そんなことを考えるとき、
自分のココロにすら壁を作ってはいないだろうか?
と思うときがある。
その壁を取り払うには、
他人を見れば、自ずと自分を見つめることにもなるのではないか、
と思ったのである。
自分の周りにはたくさんの人がいるであろう。
卑怯な人。
ずるがしこい人。
保守的な人。
明朗な人。
親切な人。
そのような人の姿を見ると言うことは、
「他人という鏡」を通して、
自分を認識できるということではないだろうか?
他人を見たとき、嫌悪感や尊敬の念などの感情が芽生えると言うことは、
自分の中にもその事象に対するそういう価値観を持っている、
と言うことを確認できるのではないかと思った。
それが自分に無ければ、そのような感情は生まれないはずである。
そこで、
他人を自分と照らし合わせたとき、
周りの人達すべてが、「自分にとって必要だ」と思えるはずがない。
こんなことを書くと、
私は周りにいる人たちすべてに対して、
いつもそんな防衛体制でいるのか?と思われるかもしれないが、
それはあながち間違いではない。
だから、自分の周りにいっぱい人が集まってきても、
それが心地よいとは思わない。
何も満たされないから。
「たくさんの友達より、1人の親友である。」
とはいい言葉であるなと、私は思う。
現に、私にとって「必要ない」と思う人もいれば、
「必要だ」と思う人もいる。
「必要だ」と思える人は、ごくわずかである。
「必要だ」と思う人であればあるほど、
その人の真の姿を見つめてあげたいと思うのである。
この人は本当は何を欲しているのか?
この人は本当は何を求めているのか?
この人は本当は何を必要としているのか?
それに対して、
私が手を伸ばしてあげることができるだろうか?
私の想いは伝えることができるであろうか?
と思うのである。
だから私は人間観察が好きである。
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