『ヒトと共に生きる』

※まず、これは私の個人的意見です。
 私は心理学者でもなければ、哲学者でもありません。
 誹謗・中傷などは受け付けておりません。

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私たちは常に周りに「ヒト」がいます。

自分以外のすべてを「ヒト」、と
ここでは表記させて頂きます。

タイトルにあるように、

『ヒトと共に生きる』

ということはとても難しいことだと思います。

私たちは親から生まれ、物心ついた時には
すでに「親」と一緒に暮らしています。
そのときに、「親といっしょに生きることは難しい」
なんて思う子供はいないと思います。
子供は親を選べませんし、
子供にとってそんなことを考える思考能力もまだありません。

しかし、大きくなってくると、
ヒトとの関わりを意識し始めます。

好きなヒト、嫌いなヒトが出てきます。
親と子の関係がギクシャクしてくる家庭もあるでしょう。

それは性格が合う・合わない、といった一言では
かたづけられないような気がします。

なぜかというと、大きくなるにつれ、
「自我」というものが確立されていくからだと思います。

「自我」は自分そのものです。

それは自分の心の中の中心にあり、
育っていく環境や、親から愛情・育て方、
ヒトとの関わりによって形成されていくものだと思っています。

先述したように、
性格が合わないとか、キライだと思うのは、
自我が無意識のうちに判別しているのでしょう。

友達、同級生、会社の上司・部下、
などなどのヒトたちはそれでもかまわないでしょう。

ですが、肉親・配偶者・自分の子供達、となると、
そうも言っていられません。
なぜから、タイトルどおり、
「共に生きる」からです。

共に生きると言うことは、
そのヒトの良いところ・悪いところも
すべて受け入れていくものだと思っています。

ですがここでは、それが難しいと書きたいわけではありません。

難しい、と思うのは、

『自分をさらけ出し合いながら共に生きること』

です。

「自分」というのは、「自我」です。

お風呂に入っているのを見られるのがイヤなように、
自分自身の丸裸な部分をさらけ出すというのは
勇気のいることであり、恥ずかしいことでもあります。

その自分をさらけ出すのが恥ずかしい、イヤだと
思うことは自然なことです。
それが人間の本能だからです。

言い換えると、

ヒトが自分以外のもの、違う個体である限り、
自分とヒトとは100%共存できないからです。

しかし、それだからヒトはヒトをわかろうと努力し
また、愛し合うことができるものでもあるのです。

それが、ヒトがヒトである本質であるような気がします。


しかし、

「これ以上は入り込んでほしくない」

とかの言葉を使うことがあるかと思います。

いわゆる「壁」でしょうか。

自分のこれ以上入り込んでほしくない壁がある
というのは、人間の防衛本能であり、
いくら分かり合っている相手でも100%解放することは
不可能だと思っています。

繰り返しになりますが、
ヒトが自分以外のもの、違う個体である限り、
自分とヒトは100%共存できないからです。


ワタシは「パニック障害」という病気になりました。
そして、完璧な鬱状態になり、
リストカット寸前までいっていたような気がします。

なので、「壁」というものが
ものすごく厚くなっていました。

自分のこと(病気のことを含めて)は、
ヒトにはわからないし、わかってももらえないだろう、
という気持ち、「壁」がありました。

だから、会社でも、

「自分はパニック障害をもっているということを、
 他人にはわかってもらえない、理解すらできないだろう」

というがあります。

なので、それをさらけ出して、
病気のことを説明する、というのは
僕にとってものすごく勇気がいります。

ですが、中にはこの病気のことを
じっくりと説明したヒトもいます。
それは「パニック障害をもっているから」という壁を
僕自身が解放しているのだと思います。


ですが、そこから先の壁の解放は、
パニック障害と関係なく難しいと思います。
これは先ほどから書いているので説明は省きます。


先日、

「自分はこの病気を持っているから、
 他人から愛される資格もないんじゃないか?」

と書きました。

それは、自分がパニック障害であるということと同時に、
自分というものもさらけ出すものであるからであり、
今の自分にはとても無理だ、と思っていたからです。

「病気のことと自分自身の両方をさらけ出し、
 共に愛し、愛されて生きていく」

と言うことができれば、
それはものすごく『幸せ』なことだと思っています。

もしそうなれば、

『その「人」には倍返しででも幸せを与えてあげられたら』

と思っています。